1: 02/10/18 13:13
家斉みたいに酒池肉林がしたかった。

引用元: ・★★幻の11代将軍 徳川家基★★

2: 02/10/18 13:26
家斉を恨むでない。治済を恨め。でも叔父さんのほうが官位は上だよ。
大納言殿。

3: 02/10/18 13:27
したかった。って今からすればいいだろ

4: 02/10/18 14:38
死亡した原因ってホントのところナゼ??
落馬、毒殺etc...

6: 02/10/20 21:35
仕事人に殺されたんだよ。(必殺仕事人V・最終回)

7: 02/10/21 09:11
早くに亡くなったんだよね?
享年いくつ?

8: 02/10/21 10:08
16くらいじゃなかったかな?

9: 02/10/22 10:44
興味ある人物だけど、盛り上がらないね。
将軍世子として西の丸に入って「家」のイミナまで貰って将軍になれなかった
のは彼だけでしょ。単に将軍の子供が死んだという事ではなく、今で言えば
皇太子浩宮が死んだのと同じことでしょ。当時は相当な大事件だったと思うんだけどね。
詳しい人教えて。

10: 02/10/22 14:45
これはマニアックなスレですね

11: 02/10/22 14:50
初めて聞いたな

吉宗-家重-家治?-(家基)-家斉

家治の子ってこと? 家斉とはどういう関係?

12: 02/10/22 17:39
>>11
徳川家基(とくがわいえもと:1761~1778)
家基は家治の実子です。家斉とは従兄弟の関係になります(父は一橋治済)。
俗説では家治以降の政権の存続を画策した田沼意次が一橋治済と結託し、まず
田安家の定信を白河松平家に養子に出し、世子・家基を毒殺。治済の息子・豊千代
(家斉)を家治の世継ぎに据えた。というもの。
でも首謀者は一橋治済のような気がしますね。田沼意次の失脚、松平定信の登場を
画策したのは治済のようだし。治済は相当な策士ですよ。当時、田安家は当主・
田安治察が病弱だったことから定信は養子に出したくなかった。それを家治の命だと
強引に養子に出した。案の定、治察は程なく病死。世子・家基も死んだ。
定信が養子に出なければ田安家当主として将軍継嗣の筆頭だったでしょう。

13: 02/10/23 11:12
松平定信が将軍になってたら、文化文政の爛熟はなかっただろうね。相当暗い
時代になったんじゃないの?

21: 02/10/26 13:51
>>13
田沼、一橋への恨みつらみがなければ、定信(にはならんか)もあそこまで
暗く理屈っぽくはならなかったのではないかと…。

14: 02/10/23 18:14
家重に孫がいたんだね。感動した。

15: 02/10/23 18:47
家斉は家基の祟りを非常におそれてたらしい。
そして怪僧につけこまれた。

17: 02/10/24 10:19
>>15
という事は家斉時代のあの退廃的、享楽的、官能的なあの文化は祟りを恐れた
家斉の現実逃避がそうさせたってことですかね。非常に面白いですね。興味沸いてきました。

19: 02/10/25 19:24
>>17
家斉の時代にやたら日蓮宗の寺院が建立されたのは、
家斉の嫡孫、家祥(のちの13代将軍家定)の病気は家基の祟りだと信じていた、とか。
(井沢元彦、梅原猛など)

23: 02/10/28 11:06
>>19
井沢元彦、梅原猛あたりがこの辺のこと書いている本ってあるんですか?
教えてください。

16: 02/10/23 19:09
怪僧は知らないが、家基の廟所を
月イチで若年寄が代参している

18: 02/10/25 17:08
墓はどこにあるんだい?

19: 02/10/25 19:24
>>18
上野寛永寺。

20: 02/10/25 21:39
黒幕は田沼意知暗殺とおなじく、
三家・溜間詰の連中。
一橋はかつがれて結果的に得したずるいやつ。
白河もかつぎ出されただけ。
ただ白河は、頭が良すぎてやりすぎたから、
黒幕どもから、あとで捨てられた。
あんがい一橋と田沼は、
裏でつながっていたのかもしれない。

22: 02/10/26 15:38
>>20
たしかに一橋と田沼はある程度つながっているね。
一橋治済死後に家斉は田沼意次の四男の意?を登用しているし。
ただ、兄貴や親父さんほどの才覚はなかったみたいだけど・・・・・・

32: 02/10/29 19:33
>>22
田沼意正は、家斉の寵臣水野忠成の政権で若年寄に登用されました。
実は意正は若い頃、この水野家に養子に迎えられていたのですが、
父意正の失脚で離縁されたという因縁があります。
そのおかげで、忠成が幕臣岡野家から入って相続できたわけですが・・・

24: 02/10/28 13:56
十八代・徳川宗家当主(予定だった)家英

・・・彼の”おかげで”ツネナリ氏が現当主ナリ。

25: 02/10/29 14:29
>>24
戦後にも怪事件があったのですか?

31: 02/10/29 19:19
>>24>>25
家英氏は家正公の長男で東北帝大の学生でしたが、病弱なため早世しました。
確か戦前のことです。
よって、戦後になって家正公の外孫である恒孝氏が養子に入ったわけです。

26: 02/10/29 16:31
もし、松平定信が養子に出ず田安家を継いでいたら、11代将軍になっていたので
しょうか?
定信の父、田安宗武は家重と相当に不仲でお目見えも叶わなかったようですね。
御三家でも筆頭の尾張家より紀伊家のほうから将軍が出たように(いろいろ
条件が揃ったにしても)。田安、一橋の争いになったら一橋に分があったような気がします。
最後は将軍家治の裁決でしょ。先代、先々代からいろいろ言い含められてたんじゃ
ないでしょうか?定信の養子を最終的に裁決したのは家治らしいですから、邪魔者は早めに
飛ばした、ってところでしょうね。それにしても田安家っていうのは不運な家ですね。
宗武、定信と人物は出したのに。

27: 02/10/29 16:47
家基毒殺説に根拠は全くないし、
そんなこと真顔で言ったら、鼻で笑われますよ。


29: 02/10/29 16:57
>>27
根拠って何かな?状況証拠は結構揃ってるんじゃない?
為政者の関与した資料だけを拠り所にするっていうのも、なんかね。
根拠ちゅーのをちょっと教えてください。

28: 02/10/29 16:53
『続三王外記』という史料には、確かに家基毒殺説の話が載っているが
この史料の信憑性自体、大石氏によってコテンパンにされています。
これに関係する、松平定信をむりやり養子にしたとの説は
渋沢栄一『楽翁公伝』にかかれていますが、
この話も今や、根拠の無い話です。
電波の集まるスレですか?ここは。

34: 02/10/29 19:57
またぞろ毒殺厨が出てきたな

こんどは家基かよ(w

35: 02/10/29 22:12
>>34
努力しなくてもいい説明だからね。
「Aの死因は何だろう・・・?」
「陰謀による毒殺です!」
ああ、なんて甘美な誘惑だ・・・

36: 02/10/30 08:52
>>35
いやいや死因なんぞは結局どうでもいいのよ。
ただ将軍家継承者の急死は政治的大事件じゃないですか。
そしてそれによって得をする連中がいて、毒殺の噂が立つような政治状況であったと。
それを少々面白く語ろうってことではだめですか?

37: 02/10/30 12:55
>>36
いいんでない?
例えば、家基が若死にしなければ田沼は開国していた、とかさ。

38: 02/10/30 16:33
>>34>>35
36さんが言うように死因なんてどうでもいいのよ。楽しく語りましょう。
スレッドも「幻の11代将軍 徳川家基」なんだからさ。

43: 02/10/30 18:36
大納言徳川家祥
は将軍になりました。

44: 02/10/30 20:34
>>43
家祥(家定)が将軍になるまでいろいろあったね~。
お美代の方による前田犬千代(前田慶寧)擁立未遂事件もそうだけど、
家慶も、もしかしたら自分より先に嫡子の家祥は死ぬんじゃないかと思っていた節あるし。
義理の甥にあたる水戸慶篤・一橋慶喜兄弟を「将軍候補」として西の丸に入れようとしていたし、
1853年にうまれた家慶の26番目の子、長四郎を家祥の養子にしようとしたり。

45: 02/10/31 10:28
話題がそれて申し訳ないけど、家宣の弟、松平清武は何で8代将軍の候補に
上がらなかったの?血筋は問題ないでしょ?将軍の弟としての処遇としては
ずいぶん低いようだけど、官位とかも。
初歩的な質問だったら、ごめん。

46: 02/10/31 11:12
>>45
家臣の養子だったから。

47: 02/10/31 12:35
>>45
大事なのは兄貴の身分ではなく、父親の身分。
清武の資格は、あくまで「甲府藩主の嫡男ではない公子」ってこと。
あれ、清武のスレになりそう

48: 02/10/31 19:48
>>45
清武は甲府家の家臣越智氏の養子に入っているので、公子ですらない。
兄家宣が甲府藩主、ついで将軍世子となったあとも甲府藩士→幕臣のままで、
大名に取り立てられたのはずっとあとである。
また、家臣扱いなのは実名に将軍の一字を拝領できなかったことからも明白。
吉宣→清宣→清武と将軍の代替わりの度に改名している。

50: 02/10/31 21:16
ほんじゃ、家基がらみの話にちょこっとだけ戻すね。
家基毒殺の「黒幕」とされる一橋治済だけど、家基死後、息子たちに
「生姜」や「黄柏(キハダ)」を「毒消し(ま、食中毒防止の事ですな)」として
毎日服用させたそうな。んで、黄柏(キハダ)のあまりの苦さに息子たちが嫌がると、
「先の西城の君(家基)のように、親より早く死ぬ事は最大の親不孝じゃ」と言って
叱り飛ばしたとか。