1: 02/11/27 00:07
早熟の代名詞、わずか10代で東北制覇の北畠顕家卿についてマターリと語りましょう

引用元: ・北畠 顕家!

4: 02/11/27 00:52
1318~1338(文保2~延元3・歴応1)

南北朝時代の貴族・武将
権中納言
従二位
親房の長男
1333(元弘3・正慶2)建武政権によって陸奥守に任ぜられ義良親王を奉じて任地に下向
35(建武2)鎮守府将軍を兼ね、足利尊氏の離反によりこれを追って上洛
尊氏が九州に敗走したので帰任し、陸奥太守義良親王とともに再び東下
36(建武3・延元1)後醍醐天皇の勅により上洛しようとして
美濃青野ヶ原で足利軍と戦って敗れ
各地に転戦ののち和泉石津で戦死した

5: 02/11/27 00:57
公卿武将
 北畠親房・・・南朝の要となる
 北畠顕家・・・戦死
 千種忠秋・・・戦死
南北朝の公家ってたくましいな。

6: 02/11/27 01:00
京都に突っ込めば勝てたものを・・何故に進路を変えたのか。

7: 02/11/27 13:22
合流を嫌ったらしい

8: 02/11/28 15:12
弟2人も結構優秀

9: 02/11/28 15:21
南朝公家何人討死しているの?
箱根竹之下、笛吹峠石浜、筑後川でもかなりの数の南朝公家が
華々しい討死しているように見受けられるが。

10: 02/11/28 20:07
ちょうど、「破軍の星」読み直しはじめたとこだ。

陸奥からの上京の件なんて興奮するね。

11: 02/11/28 20:30
「破軍の星」ってどのくらい脚色されてるの?

12: 02/11/28 21:13
漏れもあの破軍の星しか知りません。他に書かれた本ってないのかな?情報キボン

13: 02/11/28 21:22
アマゾン検索で、
「花将軍 北畠顕家」横山 高治

16: 02/11/28 21:37
>>13
北方さんの南北朝三部作の第二作目「破軍の星」と読み比べました。
後の「三国志」を予感させるエキサイティングな軍記小説。

※ 南北朝三部作 主人公
 1.「武王の門」 征西将軍宮 懐良親王
 2.「破軍の星」 北畠顕家
 3.「陽炎の旗」 楠木正儀/ほか

たしか、講談文学に贈られる柴田練三郎賞を受賞したはずだ。

14: 02/11/28 21:34
でも15歳で従三位参議でしょ。摂関家でもないのに・・・
漏れは後醍醐の寵童と見るね。

15: 02/11/28 21:36
建武の新政には親子ともども批判的だった。
でも忠義は人一倍尽くしている。

18: 02/12/14 21:37
武王の門は、懐良親王より菊池武光の方が印象にのこってるなぁ
破軍の星は、安家一族っていうのが、ちと胡散臭そうだったけど。。。顕家公は颯爽としてかっこよくかかれてましたな
個人的には、新田義貞のほうが好きなんだが

19: 02/12/15 01:06
後藤久美子が演じた北畠顕家の凛々しい武者姿は、鶴太郎の北条高時と同じぐらい
見るものを魅了すると共に、緊迫感を漂わせていて、思わず息を飲んで見ていまし
た。南部や伊達の武者達と滅んでゆく姿に思わず涙が…。

20: 02/12/15 01:28
大阪石津川のローカルな川辺リに碑があります
こんな小さな川辺リで果てたのか!と思わず合掌なまんだぶなまんだぶ

21: 02/12/15 10:56
陽炎の旗って、竜王丸とか月王丸がでてくる話だっけ?
そうだったら、楠木正儀ってあんまりでてこないやん(笑)
あれは、武王の門の続編みたいなので、足利義満の野望を懐良親王の子(水軍の長)
の月王丸が粉砕するって話じゃなかったっけ?

39: 02/12/19 04:55
>>21
「南北朝の梟」か「楠木正儀」と混同していました。
懐良のジェネレーションの物語でした。 謹んで訂正します。

22: 02/12/15 19:54
 顕家の二度の西上軍には、はるばる奥州の南部騎馬軍が参加しております。
現在の青森県、岩手県北部の侍たちです。どういうわけか影の薄い「南部氏」
ですが、石津で戦死した「南部師行」もどうかお忘れなくおねがいいたします。
「師行」と共に戦死した百数名の戦死者の名が残されているそうです。又二名の
生き残りが命からがら八戸根城(ねじょう)までたどり着き、戦の模様を報告し、
それを聞いて泣かぬ者はなかった、と記録されているそうです。
 

23: 02/12/15 21:01
>>22
一回目の時は、南部師行は参加してなかったんじゃなかったっけ?
斯波家長がいたんで、その押さえのような感じで残っていたと思うんだけど。
2度目の時は、結城・伊達と共に主力だったはずだよね。
黒地川の合戦では、一番奮戦したのが南部の軍だったらしいね。

24: 02/12/15 21:26
北畠顕家が死んだ後、陸奥国には、弟の子孫が土着し北朝および足利氏に抵抗し続けます。
陸奥国府から徐々に今の青森に追われながらも、『船越御所』、『浪岡御所』と北上する
場所に名前残しながら生き延びましたが、かつての盟友、南部氏によって滅亡させられた。
戦国時代を生き残った伊勢の大名の北畠氏も、信長の時代に滅亡している。

25: 02/12/15 21:26
そうです。一回目の時「師行」は國府(多賀城)の留守番です。根城には、「政長」(師行の弟)が
いて、政長の息子の「信政」(20才前後か?)が従軍しました。その信政は後に吉野に「後醍醐」
の奥方(達智門女院)の護衛番としてはるばる吉野に行って(1346年)その後行方不明です。
(北朝に攻められたとき戦死したらしい)後、「政長」が孤軍奮闘して南朝の旗を守りました。
ところで、「黒地川の合戦」とはどこでしょうか?「太平記」にのってますか?


26: 02/12/15 21:37
字が間違ってるかも知れないけど、伊勢に転進する直前にあった合戦が黒地川の合戦
詳しい場所は知らないのだけど、美濃と近江の境か?、近江か?
その辺りの場所だと思うけどね
太平記にのってたような記憶が有るけど
奥州軍5万(だったと思うけど)vs足利軍(15万。対象は高)で、奥州軍が勝ったけど
損耗が激しくて、京に残る10万の足利軍には抗す事が無理になったので、泣く泣く伊勢に
転進したってような書き方だったと<太平記
軍勢数は、太平記らしくものすごく多く書かれてるけど

27: 02/12/15 21:39
対象=大将のまちがいだわ
恥ずかしいので、去ります

28: 02/12/15 23:12
大河ドラマじゃ、ゴクミが演じてたなぁ。美少年だったのかなぁ。

29: 02/12/16 00:55
>>28
髭面の体格のいい兄さん。

32: 02/12/16 23:01
戦国時代末に織田信長が次男信雄を養子を送り込んだ伊勢の北畠家は顕家の弟の子孫?
そうなら南朝方が何故室町時代を生き延びられた?

33: 02/12/17 01:50
>>32
たしか、足利義満のときに恭順を誓って、伊勢守護職を認められたと思う。が
何度か反抗を試みたことがある…と記憶しているがさだかではない。

34: 02/12/18 20:33
摂関政治・武家政治の一掃を目指す後醍醐に見込まれていたにもかかわらず、その発想の古さから期待に
応えられず、最終的には後醍醐を批判しつつ憤死した悲劇かつ喜劇の人。

35: 02/12/18 20:46
発想の古さ?
何をもって、顕家公の発想が古かったといってるんだろう?
喜劇の人?
それはちゃうんじゃない?

36: 02/12/18 23:07
たところが、企画倒れというべきである。上流貴族の若者だからしょうがないか。

37: 02/12/18 23:56
南部氏は南朝が劣勢になってもしばらくは足利に寝返らず、
南朝支持を掲げて、陸奥に勢力を維持し続けた。(最終的
には、足利氏に従うが…。)北条氏亡き後の陸奥の経営を
北畠 顕家の庇護の下で任されていた様子が古文書などで
確認される。よっぽど顕家に恩を感じていたのかもしれま
せんね(この点はしったかぶりさんの独壇場でありますが…)
その子孫である、三戸南部と南部一族の津軽氏(大浦氏)の
どちらかが北畠顕家の弟の子孫である浪岡御所を滅ぼした
のは、悲しい歴史の現実ですねえ。

41: 02/12/19 20:36
鎮守府将軍に任命されるときに「従二位の俺が何故こんなシケた官職になるんじゃ!」といってマジ切れ。
結局、特例として鎮守府「大」将軍の辞令をもらって機嫌を直したという、エリート意識過剰厨です。

42: 02/12/19 20:50
帝塚山に北畠神社だっけ?あるよ。
ああ、うるわしの美少年だっけ、石碑もある。
戦前は美少年の代表で全国の女性達に人気だったらしいぞ。

44: 02/12/21 20:52
帝塚山で戦死したのか?それとも生まれたのか?

47: 02/12/22 01:24
北方厨房ばっかりだな、小説じゃなくて歴史研究書を読めよ、まったく。
あの頃は「公家がお風呂に使った湯を飲めば、どんな病も直る」というぐらいに
民衆に公家信仰があり、東北のような田舎では公家は生き神様のように扱われた。
無知な民衆にとって顕家は生き神、つまり後の一向一揆のような盲目的な信仰心に
支えられた宗教的なノリがあったがために、普通の軍隊より強かったし、
歩きながらバタバタと死ぬような無茶な強行軍にも文句も言わず従っただけ。
北畠顕家の軍事的な才能などとはまったく無関係、って言うより自軍の疲労を
考えないその無謀な猪突猛進ぶりはむしろ軍事的に無能であったことの証明。
天皇礼賛の明治以降に神格化・英雄化されただけで、実際は足利憎しの怒りに
かられた人生経験の浅い若い貴族に過ぎない。

48: 02/12/22 14:37
>>47
前半部は、本気で言ってるのか?
本気だとしたら、間違った【歴史研究書】を読んでたんだな。可愛そうに
公家信仰ねぇ~あったとしても、そんなのは顕家公の時代よりは、はるか昔の話だろ?
少なくても、鎌倉時代の前半まででしょ。公家がありがたがれてたのは。
その後は、まともな公家なんて、ほんの一部の公家だけでしょ
そんな公家を力のある地方の武士が相手にしてたとは思えないけど。。。
利用するだけして、利用価値がなくなったら、公家など相手にされなかったというのが真相では。

50: 02/12/22 23:15
>>48
横レススマソ。
場所にもよるんじゃないかな?
土佐一条氏なんて例もあるし。

逆に東北だと、朝廷に対する
反感は無かったのかな?とも思うけれど。

49: 02/12/22 18:56
戦死の一週間前に、後醍醐天皇宛に意見書を書いたというところがエライ。自分は死ぬ、しかしこの
意見書は生き続けるなんて、自己陶酔に浸っていたであろう無駄さ加減&身勝手さが好き。
普通なら作戦会議で意見書どころではないと思うが、そんな浮世離れした性格もユニークで憎めない。