1: 2019/09/11(水) 17:23:03.07
邪馬台国からどのようにヤマト朝廷になったか

邪馬台国の記述は女帝の台与が治めたところから消えていて、ヤマト朝廷の成り立ちも詳しく解っていない。

ここで俺が思っていることは

古事記に記載されている(飛鳥、奈良)以前の日本史は殆ど嘘なのでは?

中国の歴史書系統(魏志倭人伝など)のみが真実で日本が記載している歴史(特に古事記、日本書紀)は嘘八割だと思う。

つまり今の120ぐらい続く天皇も、それが本当の数なのかも不明だしヤマト朝廷(五人王、ヤマトタケル)も無かったのでは?

だからこそ四世紀は謎に包まれている。
おまいらの考察はどうだ?

引用元: ・個人的日本史最大の謎 空白の4世紀 考察スレ

5: 2019/09/11(水) 22:55:46.72
マクロな話をしよう

4世紀は任那や半島を足掛かりとした鉄交易の主導権を握るため倭人(海人族)達が争い、統一王権を求めた時代だ。

弥生後期
日本列島の倭人は各地における稲作土地開発(国産み)を進める中で一種の限界点に達していた。
それらの要因は従来の開発技術の停滞による富の集積の不安定と災害や疫病に対する対応力の弱さなどである。

やがてこの状況を祭祀で納めようとした勢力と、中国からの技術(特に鉄)を持ち込む事で開発力軍事力の強化をもたらそうとする勢力が力を持ち始めた。

そうして元来海の民でありつつも弥生式稲作文化を踏襲した倭人勢力(海人族)は九州北部に集積し交易の利権確保に努めるようになる。
当時の伊都国と那国は交易品と文化が集積する当時の国際ターミナルであり各部族が交易拠点を設置した連合体の萌芽であった。
また九州北部中部ではその交易による富の蓄積において豪華な宝物を用いた祭祀が祀られ、女王による祭祀的権威を誇る文化が育った。

海人族たちは交易のために必要な宝物や資材を確保するため日本列島沿岸を拠点として各所の露天辰砂や黒曜石、瑪瑙、翡翠産地を確保し祭祀具や鉄と交換した。
それを各地の部族民に配布し開発技術と祭祀を伝えることでイニシアチブを握り各地を「祀ろわせ」る。
その中でも突出した祭祀的統率力をもつ天孫族が覇権を担ってゆく

こうした海人族の交易力開発力により、九州のみならず出雲、吉備、尾張、関東と拠点を広げることに成功したのが3世紀までの日本の状況だと考えられる。

発掘成果が見られにくいため大きく語られていないが、こういった海人時代とも言うべき大きな文化の変遷がアマテラスの伝説を生み、邪馬台国の伝説を生み、後のヤマト王権に繋がったのだろうと考えられるのである。

7: 2019/09/12(木) 03:08:28.09
>>5
良い分析だな

↓はν速で見かけたものだが納得できた、3世紀の終わりか4世紀の初め頃に九州の海人族が鉄器とともにやってきて
畿内を制圧し西日本が大体まとまったんだな

> 193 :名無しさん@1周年 :2019/09/12(木) 01:57:50.69 ID:0YsjhZXt0

12: 2019/09/13(金) 22:06:36.71
>>7
じゃなんてわざわざ山奥で住むにはあまりてきさない畿内に朝廷が移った?

はしはかには誰が埋まってるのか推測できる?

14: 2019/09/13(金) 22:25:57.08
>>12
津波対策じゃない?

16: 2019/09/14(土) 10:04:45.13
>>14
なら同じ九州の阿蘇とか由布でええやん。
それとも噴火が嫌だから移ったのかな

なら四国、中国も守りに適してるのたくさんあるよ 朝鮮式古城だってあるし。

畿内は城跡もないんやぞ?なら最初から畿内なのか?🤔

18: 2019/09/14(土) 13:46:25.88
>>16
噴火が嫌で九州から四国へ移動
白鳳地震の津波で四国壊滅して対岸の奈良へ遷都

吉野ケ里(佐賀)→吉野川(徳島)→吉野(奈良)
黒潮の流れに沿って名前も伝播

21: 2019/09/14(土) 16:35:35.91
>>18
何で100年で二度も本拠地移ったのかな?🤔
しかも徳島の吉野川周辺は遺跡発掘されてないし

剣山は怪しいけどやっぱり何回か大きい戦いとかあったんじゃないかな🤔

25: 2019/09/14(土) 18:58:40.76
>>21
吉野川流域は遺跡だらけだよ、掘ってないだけで

11: 2019/09/13(金) 22:04:37.93
>>5
文化とか日本の形態の流れは大雑把に言えばそう推測できるけど

権力いわゆる勢力の変化はやっぱり推測するのが難しい気がする

13: 2019/09/13(金) 22:08:53.97
四世紀が謎なのは勢力の移り変わりが分からないとこじゃない?

なんでわざわざ奥地の大和が本拠地になったか、邪馬台国は何で消滅しているのか。

15: 2019/09/13(金) 22:55:39.11
奈良は半島から見た場合に守勢的立地なんだよね

17: 2019/09/14(土) 10:05:52.02
>>15
奈良だけじゃなくてもっといいとこあるでしょ

20: 2019/09/14(土) 15:54:56.09
玄界灘を本拠地とする海人が東へどんどん勢力を伸ばしていったのが弥生後期~古墳前期頃の出来事
そしてその勢力拡張は畿内に留まっていない
九州海人の権力の証である有鉤銅釧は畿内をはるかに飛び越して関東沿岸にまで分布している(下図の黒丸)
no title


実はこの東方の有鉤銅釧出土地をよく見ると、ヤマトタケルの東征伝承の地と多く重なっている
草薙剣で火難を逃れた焼津、海上で波浪に遭って后が入水した横須賀、その后を思って過ごしたという木更津、
白い鹿を討ったという足柄峠付近など、これらがいずれも有鉤銅釧の出土地になっている
no title


つまり九州海人にとって畿内征服は最終目標ではなく、そのさらに東の地域を征服するための通過点に過ぎなかったわけだ
東海以東をも視野に入れていた彼らにとって、本拠地が九州のままでは遠すぎて指令を出すのに不都合だったため
四世紀初め頃に新たに手に入れた畿内に前線司令部を作ったのがヤマト政権の起こり
しかし東西に広い日本を広範囲に支配するには畿内のほうが地理的に好都合だったため、やがてそちらが中心となっていった

そして旧都の九州も古墳時代にはまだ旧狗奴国領域を含めて多量の財宝を所有しており豊かであった、完全に衰退するのは白村江の敗戦以降だろう
no title

23: 2019/09/14(土) 16:41:04.82
>>20
大宰府設置から衰退したのかな

24: 2019/09/14(土) 17:27:36.44
>>20
ヤマトタケルが九州の海人族だったとは
驚きの発見じゃね?

34: 2019/09/17(火) 17:03:11.33
>>24
初めから天津神(海人の王)を名乗っているし、移動はほぼ船だった。
陸に上がった途端に苦戦している。

27: 2019/09/14(土) 19:18:19.51
大嘗祭のあらたえは徳島の三木家が担当する
三種の御前も徳島が用意

大事な大嘗祭で奈良京都でなく徳島の服を着て徳島のものを食べる
徳島が天王の故郷だから

28: 2019/09/15(日) 22:55:49.71
伊勢神宮の天照が卑弥呼である可能性についてはどうだろう
豊受大神はトヨと符合し、3世紀から4世紀にかけて大和から伊勢に移動することの意味とか謎に満ちている

祭祀の象徴として大和に推戴されたがヤマト王権の確立で必要なくなったのか
大和の土地の原始信仰とは別の存在であることは言えると思うけど

37: 2019/09/17(火) 18:59:37.96
>>28
伊勢神宮は土着を滅ぼした後、土着の神が祟らないようにアマテラスで封じた神社だと思うよ
アマテラスの衣装が戦闘用だからね
祭られてるのは軍神アマテラスという事だ

29: 2019/09/16(月) 12:07:53.17
伊邪那美が四国なんだから天照も当然四国
阿波岐原の橘は、徳島の橘港のことだろう

豊受は別名オオゲツヒメ
オオゲツヒメは阿波の国神
豊受もまた阿波の人

伊勢神宮は徳島の伊勢神社が黒潮に乗って三重に遷移しただけ

30: 2019/09/16(月) 15:05:17.83
>>29
そう断定するなら根拠を解説して欲しい
新しい視点から根拠を提示するなら納得もできるかもしれない
僕の考えた四国王朝にはうんざりだ

31: 2019/09/17(火) 02:03:25.93
もともと九州発の覇権国家倭があり、近畿に起こった(もしくは四国から移動してきた)大和が同時期に存在していた。その後白村江の戦いでの倭の大敗というワンチャンスを活かし、大和が倭を併合した。

隋書にもこれにそう日本側の使者の発言がある。

32: 2019/09/17(火) 02:11:29.01
そしてその後、大和は倭の神話を簒奪し矛盾が生じない様近畿各地の地名を九州の神話の要所に合わせて改名した。
実際に7世紀末期には焚書が行われた記録がある。

35: 2019/09/17(火) 17:04:12.60
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後~筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。

38: 2019/09/17(火) 20:10:04.46
>>35
結構面白くて好き
なぜそこまで解る?というのも多いけど

40: 2019/09/18(水) 08:07:01.31
>>38
記紀に加えて、九州各地の神社の縁起に追加情報があるんだよ。
それらをまとめるとああなる。
るな氏のブログかがかなり参考になった。

36: 2019/09/17(火) 17:05:17.34
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。
以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


『新唐書』日本伝

其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至るおよそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州


(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本は東側の小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)

日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は筑紫にいた。(新唐書)

39: 2019/09/17(火) 20:22:26.95
>>36
筑紫城と言われると想起するのは高良大社と神籠石
これらに関連性があればより具体的な説に進化しそう

41: 2019/09/18(水) 08:20:21.47
>>39
倭王の筑紫城がどこであったかは、倭王卑弥呼の邪馬台国がどこかとほぼ同義だろう。
古代史最大の謎だけど、本当に同じ城を使い続けたのかは疑問もある。
ただ、彦渚ウガヤフキアエズを含む日向三代の宮は、国内の史書では筑紫の日向の高千穂宮とある。
それはイザナギが禊をした筑紫の日向の小戸つまり福岡市西区の近くであるはず。
彦渚の父であるヒコホホデミ(山幸彦)が祭られているのが小戸のすぐ南側にある高祖山の高祖神社で、その西側の三雲南小路遺跡の細石神社はヒコホホデミの母である木花咲耶姫を祭る。
三雲南小路遺跡の被葬者は考古学的には三種の神器を持つ倭王で、その年代は金印をもらった頃になる。
ヒコホホデミの妃であった豊玉姫の実家は高祖山から見える志賀島の綿津見神社。
そして魏志倭人伝では玄界灘を支配していたのは高祖山の麓にある伊都国の大率。
全てが博多湾沿岸に収束する。

42: 2019/09/18(水) 09:55:00.34
倭國者 古倭奴國也 去京師一萬四千里 
在新羅東南大海中
依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國通
其國 居無城郭 以木為柵 以草為屋
四面小島五十餘國 皆附屬焉
其王姓阿毎氏 置一大率 檢察諸國 皆畏附之

倭国は、古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、
新羅の東南、大海の中に在り。
山島に依りて居す。東西、五カ月の行、南北、三カ月の行なり



倭国は大海の中にある東西に長く南北に短い島
九州ではない

48: 2019/09/18(水) 17:29:19.29
>>42
この当時の倭国は四国だな。
東西が5 南北が3の比率の島だろ?

43: 2019/09/18(水) 10:28:46.30
時代によって違います

44: 2019/09/18(水) 15:14:17.64
190年から247年迄の筑紫女王国は独立国であり、
日本には九州を含む統一は無かった。

半島情勢として
BC100~313年迄の半島の楽浪帯方郡時代を、記紀は知らない。
246年から313年迄の馬韓、辰韓は帯方郡が制圧し、王政を廃した直轄統治である。
本州における、BC200年からこの間の青銅器移入は釜山側、辰韓が主流だったかもしれない。

350年の百済新羅建国については、高句麗戦などで倭人がこれを後援しているのであって
三韓征伐と言うのは無く、どちらかと言えば、弁韓は倭人が植民地化していた。
倭人伝が、馬韓辰韓の南は倭とするのは、これを十分把握していなかったから。
400年迄には、日本への高句麗馬の移入、鉄の国内生産化は終わっている。

倭の五王時代400年~500年については
中国史がリンクするが、漢名を名乗った王は、記紀とは一致しない。
この時代は中国語の文字が使えた訳で、王には古墳が残るのであり不明であれば
諸国の豪族による戦国時代的な国体で、世襲継続王朝ではなかった可能性が高い。

記紀の王統が直系の可能性が高まるのは、継体天皇からである。
隋書には、600年の王(聖徳太子)後宮有女六七百人 であるから
諸国の豪族は子女を送り、政争に利用したと思える。源氏物語の世界だ。
これは、ある程度の世襲王権だが、大化の改新となる。

45: 2019/09/18(水) 15:32:13.57
そのサイズの後宮なんて蘇我氏くらいしか持ってないんじゃない?

46: 2019/09/18(水) 15:51:45.59
サイズ的にそもそも奈良盆地にそんな大きな王宮は見つかっていない。

47: 2019/09/18(水) 15:53:26.27
聖徳太子が幼少時は馬子邸の五経博士や仏教僧を家庭教師にしていた。
これが、馬宿の皇子と揶揄された由縁だろうと思う。

その後、渡来人を使って寺院や宮を建設
600年の裴世清には、新造の斑鳩宮と法隆寺を見せた。
後宮もこの斑鳩の宮だと思う。

帰国後、裴世清は人も建築も中国の都と変わらないと証言した。

記紀についての話では、女帝の推古天皇と言うの迄が創作の疑惑がある。
もはや、全期間デタラメ説w
大化の改新の皇統の混乱を記紀で伏せるという理由も有ったかと思う。
この辺りは白村江海戦に向かう、開国派と攘夷派の争いも有ったはず。

49: 2019/09/19(木) 09:50:50.92
東西五月行 南北三月行 については
遣隋使の要請で来日した、裴世清が 大和を訪れた際の記録がソース

国の大きさについての記述だが、
東西五月行 南北三月行 各至於海 と記す書もあり
九州の南北が三月行 瀬戸内海が五月行 の意味と考えられる。
この時の日本の東の果ては、奈良の東の山までと見られている。

極めて出典の少ない、月行の単位だが
九州島南北3月行が、倭人伝の九州上陸後、陸行一月の2千里と一致する。

50: 2019/09/19(木) 12:40:37.91
当時瀬戸内海は未整備で使えないし
豊後水道を挟むならそのことも書くだろう
島内の移動だから海に至る、という表現になるわけだ