1: 01/12/23 05:59
元々は丁原配下、その後呂布と行動を共にし
主は董卓→呂布と替える。

下丕β(かひ)で曹操に捕らえられると、
「濮陽城で殺せなかったのが残念だ」とのたまい殺されそうになるも
劉備、関羽に救われる。

こんな張遼が何故、楽進・李典を差し置いて合肥の城の総大将と
されるまでに至ったのか教えて下さい。

引用元: ・張遼が曹操に信任された理由

2: 01/12/23 06:04
才のある者を愛するのが曹操でしょ?

3: 01/12/23 06:05
どこでその才を見抜いたかを知りたいんです。

6: 01/12/23 06:10
呂布の元でそれなりに活躍してたんじゃネーノ?

8: 01/12/23 06:30
雇用者と労働者の関係。

Ⅱちゃん的には
張遼は人付き合いが悪く友が数える程度しかいなかったので
寂しがりやなの。
高く評価してくれる曹操さま(はーと)。
って感じなのさ。

10: 01/12/23 06:40
張遼と李典って仲悪かったんだよね?
なんで張遼を総大将にしたんだろうね?謎だ。
李典のほうが部曲も比べ物にならないぐらいおおきかったのに。
確か曹操旗揚げ時の兵隊の半分以上は李典の一族の関係者だったはず。

12: 01/12/23 06:50
>>10
張遼と李典じゃなくて
張遼・楽進・李典それぞれが仲悪いです。

13: 01/12/23 06:55
>>10
はい。僕も似たような感想を持ってました。

14: 01/12/23 07:06
>>13
演義でもの語られても困るがな。
宋憲と魏続も降服したばかりだし・・・
顔良が攻めてきて二人は討ち取られそれを聞いた曹操が
関羽と張遼を先陣にして白馬に急行して顔良を討ったんだよ?

曹操の話しをしていて年功序列という言葉は初めて見た!

11: 01/12/23 06:45
まあ一応いっとくと曹操は降服したばかりの将は常に
先鋒を務めさせ必ずと言っていいほど後方には起用しないな。
張コウしかり関羽しかり

>>張遼が何故、楽進・李典を差し置いて合肥の城の総大将

とは言っても曹操の部下となって10年となる。
楽進は17年前後、李典は13年(李乾、李封を別とすると)ぐらい。
張遼は北伐で大戦果を上げてるし、呉の政策は徐州侵攻が為
最前線となる重要拠点であるが為に張遼が特に任命されたんだろうて。

13: 01/12/23 06:55
>>11
先鋒を務めさせる・・・。
宋憲と魏続が顔良に討たれましたよね。
なぜ張遼には戦わせなかったのでしょうか。
もし戦わせていたのをご存知でしたら詳細を教えて下さい。

10年と17年の違いですか。そういわれればそうですね。
曹操ほどの人物ならそれだけ見ていれば才能を見抜くに十分ですね。
これなら年功序列によってのみでなく能力によって起用している理由も
わかります。

11さん、ありがとうございました。

15: 01/12/23 07:17
そ、そうですか。演義の逸話なんですか。
教えていただき感謝します。

たしかに曹操は能力主義ですが決め手がない場合は
やはり年功序列になるんじゃないかなぁ、という意味で書きました。

ところで14さんの出現によってまたも疑問が。
この時点で、少なくとも魏続・宋憲よりは
張遼の方が信任されていたということでしょうか。
呂布配下時代の序列が上だったってことなのか、それとも
すでに張遼の才を見抜いていたのか・・・。

あと、曹操に付く前の張遼の功績って何かありますか?
呂布軍に張遼あり!ってな逸話とか。

質問ばかりですみません。
どなたかわかる方、よろしかったらお願いします。

22: 01/12/23 16:03
>>15
>曹操に付く前の張遼の功績
呂布に従って各地を転戦・・・ぐらいしかないなぁ。正史の記述。
でもそれによって魯国の相になっているから重臣と言えるんじゃないかな?
降伏直後から反乱を起こしたショウキを降伏させたり、対エンショウ戦で
活躍するなど曹操の目に止まる機会は多かったと思われ。

16: 01/12/23 07:26
三国志の話より冬休みの宿題終わらせようぜ
後々楽になるからさ

20: 01/12/23 10:34
関羽を投降させた手柄

21: 01/12/23 15:40
>>20
それって演義だけの話しじゃない?

23: 01/12/24 00:51
正史の張遼伝を読むと何故陳寿が張遼を武官の筆頭に持ってきたのかがよく判る。
思わずすげーーーって唸ってしまう。
武功もさることながら臨機応変の判断力がまたいいんだな。
だから曹操(および曹否)が常に重要拠点に配置したのも道理だよ。

ちなみに合肥の守備に仲の悪い3人を配置したのは予め曹操が性格を計算しての配置だとか。
たまたま成功したにせよ凄げ―よ曹操!

27: 01/12/25 11:41
楽進はともかくとして、李典はかなり張遼に恨みがあっただろうから、同じ城に
駐屯さえるという行為は危険といえば危険だよなぁ・・・。
薛悌や趙儼といった護軍がうまく調整取っていたのかな~?

28: 01/12/25 12:31
張遼がいたからこそ孫権は合肥を抜くことが出来なかった。
呉は北進(徐州)か西進(荊州)に選択を絞らなければならなくなり
結果選んだのが西進策。
想像以上に張遼が歴史に与えた影響は大きかったと思われ。

31: 01/12/25 15:14
蜀における趙雲と同じでイメージいいよね。欠点が無いというか。
これは後世の感覚だけど。

34: 01/12/25 15:53
>>31
張遼は前線指揮官→方面軍司令官。
趙雲は近衛隊長→前線指揮官。
格が違うよ。

32: 01/12/25 15:34
でも呂布の下にいた時点では、高順のほうが武勇も名声も高かったはずなのに
どうして張遼のほうを助命したんだろ。
やっぱ曹操の愛してやまない、関羽の推挙が効いたんだろうか。

33: 01/12/25 15:44
>>32
そりゃ単に張遼が起用に応じただけの話だろ。高順はイヤって言ったの。

38: 01/12/25 16:23
>>32
演義じゃ曹操にへらず口を叩いているけど、正史では張遼が自ら降伏
してる。

39: 01/12/25 17:42
騎兵を率いることに長けていたんだろうね。
楽進や李典には特に騎兵を率いるイメージがない。
だから総大将なんでしょう。

40: 01/12/25 18:20
楽進は、城攻めで一番乗りしてしまう様で大将としては心配。
李典は、夏候惇の副将として良く補佐をした。
こんな感じで、張遼が合肥方面の大将になったんじゃないの?

41: 01/12/25 18:22
取り敢えず、二張か楽・于・徐の誰かを大将に使っとけば
大丈夫って信頼感があったんじゃない?

42: 01/12/25 18:24
魏の五将軍マンセー

43: 01/12/25 18:27
蜀の五虎将は寄せ集め。

46: 01/12/25 19:06
>>43
五将軍も寄せ集めじゃん(ワラ

44: 01/12/25 18:33
五虎将なんて演義の作り話じゃん。

45: 01/12/25 18:43
そう。
蜀の五虎将は正史の「関張馬黄趙伝」からきた演義の創作。
ちなみに魏の五将軍は「張楽于張徐伝」から。
もちろん先にでてくる張が張遼。後のは張コウ。

47: 01/12/25 19:20
でもさ、呉が仮に合肥や寿春や徐州あたりを取ったとしても陸戦に弱いし
国力もたいしたこと無いからすぐに取り返されるんじゃないの?

49: 01/12/25 20:35
>>47
国力差もあるけど、呉は不服従民という厄介な問題もあるね。

48: 01/12/25 19:49
張遼が合肥を守ってた時、曹操本隊は張魯征伐中。
後年ほど予備兵力も無いと思われるので、蜀と呉の挟撃でかなりやばくなるのでは。

50: 01/12/25 23:19
少数の兵で孫権を絶体絶命の淵に追いやったのは
正史の記述にもある。